エピソード3
「歌う歯科衛生士」
訪問診療をしていたころの話です。ここは長期療養型病院の一室です。私は訪問診療の時、口腔ケアを始める前に、お顔を見て、元気にお名前を呼んでいました。「○○さ~ん、こんにちは」。患者さんは頷きます。優しくお顔を撫でて、手をさすり、心に触れます。それから口腔ケアを始めます。 時々、私の指を噛もうとします。「あら~、噛んでみたいのね~」と冗談を言いながら話しかけ続けます。あるとき、腕がどこにあるのかわからなかったので、掛け布団を少し開いて身体の状態を見ました。細くなってしまった手も足も複雑な状態で絡み合っていました。見ているだけで切なくなります。 病室は、時々聞こえてくるナースの声以外は音のない世界です。ご家族の要望なのか、音楽をずーっと流している病室もありました。 あるとき、向かいの病室から歌声が聞こえてきました。寝たきりのお母さんのために2人の娘さんが優しい声で童謡を歌っています。それは、お母さんが幼いときに子ども達に歌っていた歌なのでしょう。とっても優しくて穏やかな歌声です。 ふと、切なくなりました。私の目の前のYさんは、いつもひとりぼっちです。お見舞いのご家族に会ったことはありません。私も歌を歌い始めました。私は、歌いながら口腔ケアする歯科衛生士です。声が大きいので、私の歌声は廊下まで響いていました。看護師たちは私の行動を黙って見守ってくれていました。 季節は春。窓の外は桜が美しく咲いていました。「ありがとう」。声をほとんど出せない患者さんから、かすかに声が聞こえました。気持ちが通じ合った尊い時間です。 私は口腔ケアを終えて部屋を出る時、「Yさん、また来週ね~」と声を掛けます。その日が最期となる患者さんがいるかもしれないからです。「必ずまた来週会おうね」という気持ちで声を掛けます。そして、患者さんに一礼をして部屋を出ます。